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◆柳生の里 旧家老屋敷パンフレット [ 1 ] 奈良市経済部観光課発行

柳生の里旧家老屋敷パンフレット

■家老屋敷

柳生藩(1万石)の家老、小山田主鈴の旧邸。主鈴は、文政9年(1826)国家老として江戸から奈良に移り、
柳生藩南都屋敷を預かって藩財政の立て直しに成功、弘化3年(1846)家督を譲って退隠、
さきに藩公柳生但馬守俊章から賜っていたこの地に新邸を営んで余生を送った。
それがこの屋敷で、弘化4年(1847)8月に着工、翌嘉永元年(1848)6月に上棟したものである。
主鈴は、安政3年(1856)75歳をもって世を去ったが、その子孫は明治4年(1871)の廃藩後もここにとどまり、
旧藩主柳生俊益(俊郎)も三たびこの屋敷に立ち寄っている。
昭和を迎えて米蔵その他の付属施設が撤去されたりしているが、主屋はほぼ創建当初の姿をとどめ、
奈良県下ではほとんど唯一の武家屋敷の遺構である。
昭和31年(1956)後裔が奈良の大森町に移って屋敷は土地の人の手に渡ったが、
昭和39年(1964)に作家山岡荘八氏の所有となり、以後しばしばここに滞在した。
昭和55年(1980)遺族の山岡賢二・雅子夫妻から奈良市に寄贈された。
公開にあたって庭園と塀を修復するとともに主屋にも若干の補修を施し、座敷の一部を展示室にあてて関係資料を展示した。


■小山田主鈴(おやまだしゅれい)

天明元年(1781)~安政3年(1856)岩代国岩瀬郡牧之内村(福島県天栄村牧之内)に生まれた。
白河藩の郷士小山田孫右衛門の弟、幼名を弥一郎といった。文化3年(1806)25歳のとき江戸の柳生藩邸に仕え、
才腕を認められて重職に栄進、文政9年(1826)45歳のとき国家老として奈良に移った。
柳生藩南都屋敷を預かり、大阪堂島の米相場で巨利を得て藩財政の窮乏を救うなど、よく経世の実をあげた。
伝承によれば、米相場の成功のかげには、こんにゃく橋の下の流れの水温によって米価の騰落を予想した妻保女の示唆があったという。
かれはまた、茶事を大阪の木津宗詮(官休庵流 紀州藩出仕)に学んだなかなかの茶人で、
餠飯殿町の居宅を「随処楽」と名づけ、公務のかたわら茶の湯をたしなんだ。
弘化3年(1846)65歳で家督を養嗣子三郎助耕三に譲って退隠、程なく新邸を営んでここに移るが、
作庭にあたっては宗詮の指導を受けたと伝える。


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